2018年1月13日土曜日

Don’t throw the baby out with the bathwater. 風呂の水と一緒に赤ん坊まで流すなよ。

木曜の夕方5時、どこからこんなに湧いて来たんだ?と思わず見回してしまうほど大勢の社員がランチルームに集まって来ました。今週一杯で総務のベスとヴィッキーが会社を去ることになったので、その引退パーティーが催されたのです。二人とも孫のいる年齢なので本来ならお祝い気分で送り出すべきところですが、主役たちと言葉を交わす人々の多くは目を潤ませていました。というのも、これは彼女達の意思に基づいたリタイアメントではなく、会社全体で大ナタが振り下ろされた結果だからなのです。

今週末に全米の総務系社員を一斉解雇し、派遣会社からの安い人材とすげ替える、という非情な決定。過去にIT系社員の大型リストラを経験しているだけに、避けられないトレンドとして受け止められる一方、この会社は一体どこまで無慈悲な首切りを続けるんだ?という嫌悪感が募ります。うちの支社は数百人の社員をわずか三人のベテラン総務社員が支えていて、既に限界ギリギリでした。これを新顔の派遣社員二名に引き継ぐというのだから、皆で顔を見合わせて静かに首を振るばかり。

翌朝、受付カウンターに座っていたヴィッキーに話しかけました。メークにもヘアスタイルにも80年代の名残りを感じさせる彼女は、ちょっぴり襟を立てたグリーンのブラウスにチャコールグレーのタイトスカート、というお馴染みのスタイルで立ち上がり、シアトルに住んでる娘の出産日が迫ってるので来週から赤ん坊の面倒を見に行くのよ、と屈託なく笑います。

「ここで働く最後の日なのに、やらなきゃいけないことがこんなにあるの、見て!」

と手書きのリストを差し出す彼女。

「性分だから仕方ないんだけど、中途半端な仕事が出来ないのよね、私。」

それから、この会社で働き始めた28年前の話になりました。総勢60名の支社に、自分を含めて9人の総務社員がいたこと。交換手としての仕事がメインで、多い時は六本ほどの受信を同時に捌いていたこと。留守番電話機能が登場する前だったので、伝言メモをカウンターに並べておいて社員がこれをチェックしに来るのが日常だったこと。ファックスだけが唯一のハイテク機器だったこと。

「歴史を見つめて来たんだねえ。」

「うん、ずっとずっと楽しかったわ。」

12時過ぎに再び受付へ戻ると、今回の一斉解雇を回避し間一髪でオペレーション部門への異動を果たしたヘザーが、ヴィッキーと話していました。忘れ物は無いか、引き継ぎし損ねたことは無いか、とひとしきり事務的なチェックが続いた後、花束を入れた大型のショッピングバッグを手に、ヴィッキーがエレベーターホールへと向かいます。ドアの前で私にハグし、続いてヘザーとハグを交わした後、ちょっと驚いたような顔になるヴィッキー。

「泣かないって言ったじゃない!」

私に背を向けて立っているヘザーを見つめながら、ヴィッキーの笑顔がみるみる歪んで行きます。こちらを振り向いたヘザーは紅潮した頬に大粒の涙をボロボロこぼし、助けを求めるような目で私を見やります。それからもう一度ヴィッキーを強く抱きしめ、泣き出した彼女をドアの外に押しやると、くるりと振り返って震えるしゃがれ声でこう言いました。

“I hate today!”
「今日って最低!」

この後、同僚ディックとランチを食べに行きました。良く晴れたダウンタウンを歩きながら、今回の人事について話し合いました。

「長年の間にベスとヴィッキーの頭に蓄積された知識や知恵の量は、計り知れないよ。どんなに頑張っても引き継ぎ出来ないようなことがあるっていうのに、そういうのを分かった上での決断なのか、トップに聞いてみたいよな。」

とディック。そう、組織の運営にとって大切なのは、仕事の手順など文書化可能な情報だけでなく、社員ひとりひとりの頭の中にある、簡単に言葉に出来ない「知恵」なのです。特に総務のベテランは「知恵の塊」ともいうべき存在。コストカットという名のもとに貴重な知的資産を切り捨てることで、どんなしっぺ返しが来るのか…。しかし末端の社員達は大いに影響を受けこそすれ、当の意思決定者たちは大して痛痒を感じないのが現実。このギャップが問題なんだよね、と二人で首を振ります。

「そうだ、こういうイディオム知ってる?」

と私。

“Don’t throw the baby out with the bathwater.”
「風呂の水と一緒に赤ん坊まで流すなよ。」

これは、最近覚えたてのフレーズ。ウィキペディアによれば最初に確認されたのは1512年、という古い表現で、真偽は定かでないものの、語源らしきエピソードがこれ。

昔、貴重な水を有効に使おうと家族全員が一人ずつ風呂桶(たらいのようなもの)で身体を洗うのが習わしで、順番としては赤ちゃんが最後だった。全員が使い終わる頃にはあまりにも水が濁っているため、赤ん坊の存在に気付かず一緒に流して捨てる人がいるかもしれない、気をつけなさいよ、という耳を疑うような忠告です。意訳するとこうなりますね。

“Don’t throw the baby out with the bathwater.”
「何かを捨てようとして大事なものまで一緒に失うなよ。」

ああ聞いたことあるよ、とディック。まさに今回の人事決定をした奴等に言ってやりたいフレーズだよな、と二人の意見が一致しました。

「この表現、ロスのジャックが使ってたんだ。ジャックって知ってる?」

いや、知らないな、とディック。

「もともと旧PMツールの開発とサポートを担当してたんだよ。IT部門の大型リストラと新PMツールの登場で一度失職の危機に立たされたんだけど、生き残りのためプライドを捨てて新PMツールのサポート・チームに入ったんだ。なのに火曜日に解雇されてね。彼が会社を去る際、お別れ一斉メールの中でこのイディオムを使ってたんだ。」

31年間真面目に働いて来た彼にとって、最後の最後に受けたこの仕打ちは余程腹に据えかねたと見え、普通なら「今まで有難う。感謝で一杯です。」など当たり障りない紋切口調が散りばめられがちな「さよならメール」に、なかなかスパイシーな文言が埋め込まれていたのです。

I have spent the last years in the Information Technology group. Personally I am a big fan of XXXX. I wish we had XXXX when I was supporting operations. But the baby was thrown out with the bath water and you now have YYYY (with ZZZ to support. Good Luck!!!)
ラスト数年間はITグループで過ごした。個人的には旧PMシステムが大好きだ。自分がオペレーション部門にいた時代に旧PMシステムがあったら良かったのにと思ってる。しかし赤ん坊は風呂の水と一緒に流され、新PMシステムのお出ましだ(ZZZ社のサポート付きでな。せいぜい頑張れよ!!!

よくぞ言った、ジャック!


2 件のコメント:

  1. 日本語の慣用表現だとどうなるんだろう、玉石混交?なんか違うナ・・・と調べてみたら「玉石同砕」なる言葉があるらしい。
    http://sanabo.com/words/archives/2003/07/post_2437.html
    かなり意味は近いと感じるが、あまり慣れた表現じゃないね。日常的な会話だったら
    「クソもミソも一緒にすんじゃねえ!」
    って感じでしょうか。

    このベテラン総務さん達のナレッジを惜しむ気持ちは良く解るが、彼女達も永遠の命がある訳じゃないので、このまま続けていくことは、より事態を深刻化させるだけ、って判断もありそうだね。こういうバッサリとしたやり方も一つの解決手段なのかもヨ。。。

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    1. 「クソも味噌も一緒に」が一番近い気がするね。「玉石同砕」は初耳でした。口にした後、暫く遠くを見つめてしまうような熟語だね。

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