2010年12月11日土曜日

アメリカで武者修行 第31話 たわ言もいい加減にしなさい!

ある日のこと、州政府からプロジェクト・チームに派遣されていた若い男性社員のダリルが、私のキュービクルにやって来ました。
「シンスケ、この手紙、ちょっと見てくれる?」
渡された英文にざっと目を通してから顔を上げ、
「読んだけど、これがどうしたの?」
と尋ねると、
「僕が書いたんだけど、英語、おかしくない?おかしいところがあったら直してくれる?」
耳を疑いました。日本からやってきてまだ3年半。その私に英語をチェックしてくれだって?!
「よく書けてると思うよ。」
と感想を伝えると、
「そう、良かった。どうも有難う。」
「ちょっと待った。」
笑顔で去ろうとするダリルを慌てて呼び止め、こう質問せずにはいられませんでした。
「どうして僕に見てもらおうと思ったの?」
すると彼はポカンとした表情になり、
「えぇっと、誰だったっけ。誰かから、ビジネス文書はシンスケにチェックしてもらうといいって言われたんだよ。」

過去一年、弁護士である上司のリンダから、鬼のような英作文の指導を受けて来た成果が、初めて具体的な形で現れた瞬間でした。彼女の赤ペンで原稿が真っ赤に染まっていた日々のことを思い出し、感謝の気持ちが胸にこみ上げて来ました。

さて、待ちわびていたエドからの電話を受けたのは、二月中旬の月曜でした。
「ボスからの承認が下りたよ。来月初めから俺のところで働いてもらいたい。」
遂に失職の危機を脱したのです。急いで妻に電話をかけ、喜びを分かち合いました。リンダに伝えると、ニッコリと微笑んで祝福してくれました。ジョージもこのニュースを喜んでくれました。
「それは良かったな。しかし三月にサンディエゴ支社勤務がスタート出来るかどうかはまだ分からんぞ。クレーム文書の仕上げをそれまでに終えられるとは到底思えんからな。私からエドと話して調整しておく。」

翌日、エドから電話が来ました。
「ジョージが君を暫く貸してくれと言うんだが、今の仕事を仕上げるまでにどのくらいかかると思う?」
と尋ねます。およそ一ヶ月と答えると、
「分かった。それじゃあしっかり残務を片付けて、綺麗な身体でうちへ来てくれ。」
と言いました。

二月後半のある日、リンダが低い声でこう言いました。
「裁判に持ち込もうという動きを、彼らに勘付かれたようよ。ORGの上層部が、クラウディオに話し合いを申し出たんですって。」
およそプロフェッショナルとは思えない「知らぬ存ぜぬ」の手紙を元請会社ORGから受け取った直後、我々設計JVは、遂に最後の手段に出ることにしたのです。未解決のクレーム約五十本を束ねて裁判にかけるという作戦。最終決着をつけるべく、ひとつひとつのクレームを細かく点検し、モレやダブリを排除した損害請求額の積み上げ資料を作成するための、本格作業が始まりました。同じ建物の一角で働く元請会社の連中にバレないよう、極めて慎重に進めていたつもりだったのですが、ついに気付かれた、ということでしょう。

裁判になればマスコミにも取り上げられ、社会的信用失墜の憂き目を見ることは確実です。勝っても負けても双方が高額の弁護士費用を支払うことになるため、よほど巨大なプロジェクトでないと、こういう事態にはなかなか至りません。よもや裁判にはなるまいと、彼らも高をくくっていたのでしょう。

リンダと私の会話に途中から加わったティルゾが、こう付け足しました。
「うちのドキュメント・コントロール・システムの威力が、ようやく彼らにも分かって来たみたいだな。我々の裏づけ資料の質の高さに舌を巻いてるって話だよ。」
元請会社のORGは、恐ろしく旧態依然とした資料管理体制を維持しています。二人の女性社員が倉庫の戸口に机を並べ、問い合わせのあった資料を手書きの帳面から探し出し、番号を見ながらダンボール箱を引っ張り出す、というシステム。これでは、情報戦において我々と太刀打ち出来るわけがありません。

「トップ会談で訴訟回避という結論が出るかもしれないけど、どっちに転んでも損害賠償は請求するわよ。ぐうの音も出ない、完璧な書類を仕上げましょう。」
と、リンダが気合を入れます。PB社のアトランタ・オフィスから送り込まれたプロジェクト・コントロールの専門家フランクがデータをまとめ、それを受けて私が図表を作成、リンダが文書を練り上げるというチームプレーが、来る日も来る日も続きました。どのタスクのために誰が何時間働いたが、契約上は何時間という前提だった、という比較表を作ったり、コンピュータのサーバー使用料の分担額を決めるため、過去十数ヶ月の名簿を集めて各社の人数表を作ったり、と極めて地味な、しかし忍耐力を要求される業務です。

その間にクラウディオとジョージは、プロジェクトオフィスで働いて来たメンバーのほぼ全員を引き上げさせました。自分のオフィスから派遣されていた者は元のポジションへ戻り、このプロジェクトのために外部から雇われた者は解雇、という形で。総務・経理担当のシェインや環境担当のティルゾは、サンディエゴ・オフィスへの異動が決まりました。

最盛期には60人ほどいたチームですが、今ではクラウディオとリンダ、それにフランクと私の4人だけ。運命とは皮肉なもので、不慣れな契約の仕事についたお陰で、ここまで生き延びて来られたのです。もしも私が技術屋として雇われていたら、とっくに解雇されていたことでしょう。

その後、データ整理にけりをつけたフランクがアトランタへ戻り、とうとうリンダと私、そしてクラウディオの3人だけとなりました。建物のコーナーにある二部屋を三人で分け合い、残りは完全な無人。まるで幽霊城の一角に灯りが点っているような、不気味な光景です。

4月後半。クレーム文書の作成も大詰めを迎えたある日、リンダが書類を手に私の横に立ち、興奮した声で言いました。
「これは私が頼んだ積み上げ方と違うわ。どういうこと?」
渡された書類に目を通し、私が答えます。
「いえ、頼まれた通りですよ。契約外(Out of Scope)と明確に判断できるタスクに絞って積み上げたつもりです。」
「グレーな部分も加えるはずだったでしょう?」
「それはおかしいんじゃないですか?ひとたびグレーな部分を含め始めれば、クレーム全体の境界線が曖昧になって、裏付け資料としての強さを失ってしまうと思うのですが。」
リンダの顔がみるみる紅潮してきました。
「つべこべ言わずに私の言う通りにするのよ。」
鬼の形相です。ふと気がつくと、私は彼女の目を正視し、こう静かに答えていました。
「いいえ、それは出来ません。明確に契約外と言い切れる案件のみを積み上げるべきだと思います。」
不思議なくらい冷静でした。臆することなく、己の信ずるところを彼女に伝えようとしていました。
「Bullshit! (たわ言もいい加減にしなさい!)」
彼女はそう叫ぶと、肩を怒らせて部屋を出て行きました。少し間を置いて、リンダに本気で刃向かったのはこれが初めてなのだという自覚が脳に到達しました。顔がどんどん赤くなって行くのを感じます。一人残された私は、自分の鼓動を大音響で聞いているような気分でした。しかし五分ほどして戻ってきた彼女は、ケロリとした笑顔で私の机の端に腰掛け、穏やかな声で謝罪しました。
「さっきはごめんなさい。あなたの言う通りよ。そのまま続けてちょうだい。」

その翌日、久しぶりにプロジェクト・オフィスにやって来たジョージが、
「シンスケをこれ以上プロジェクトに留めておくことは出来ない。新しい仕事も滞っているし、彼をこの任務に就かせたことで何万ドルか余分に予算を使ってしまったからね。」
と、4月の最終金曜日に私を引き上げさせることをクラウディオに告げました。この後のクレーム文書の行方は、リンダの双肩にかかることになりました。

そして最終日の夕方。がらんとした部屋で椅子に腰かけ、こちらを振り向いたリンダに、まるで翌週もまた一緒に仕事するかのように、
「See you! (じゃ、また!)」
と挨拶し、プロジェクト・オフィスを後にしました。握手も抱擁も、そしてこうした場合に通常交わされるであろう、心温まる送別の言葉もなく。

そしてそれきり二度と、彼女と会うことも、話すこともありませんでした。

2 件のコメント:

  1. 今回も読みごたえがありました。

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  2. 長いのにちゃんと読んで下さって有難うございます!

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