2010年9月13日月曜日

アメリカで武者修行 第23話 シンスケに頼んだのはわしだ。

事の始まりは、ある日測量業者から届いた二通の請求書でした。エクセルの一覧表を開いて数字を打ち込んだところ、最後の一通を足したところで契約額を6千ドルほど超えてしまうことに気付いたのです。不審に思い、全ての請求書をファイルから引っ張り出して見直したのですが、ダブりはありません。定石通り、メールで先方に連絡しました。
「最後の請求書は受け入れられません。契約書にもある通り、事前の合意がなければ契約額を超えて支払うことは出来ません。」
すると間もなく、測量業者のアンディから返信が届きました。
「現場でおたくの社員から追加作業を指示されたのでやったまでです。頼んだのはおたくなんだから、払ってもらいます。」
「その指示は、誰から受けたのですか?」
「おそらくケヴィンかマイク(下水道担当)だと思います。」

さっそくケヴィンとマイクに尋ねてみたのですが、そんな指示を出した記憶は無いと言います。
「さあ、一ヶ月以上前の話だからな。そりゃ現場で何か軽く頼んだかもしれない。でも正式に作業指示をした憶えは無いよ。それに、その時彼らがどの程度まで契約額を使い切っていたかなんて、俺たちが知るわけないだろ。」
ケヴィンの言う通りです。仮に作業指示が出されたとしても、そこでアンディが予算不足の話を持ち出していれば、事態の流れは変わっていたでしょう。

老フィルに相談したところ、
「こういう場合はあまり間を置かず、内部調査で明らかになったことを正式文書にして届けた方がいい。」
との考え。さっそく、何故6千ドルが支払えないかをもう一度きちんと書面にし、マイクのサインを貰って送りつけました。しかし数日後にアンディから届いた返信を一読した途端、気分が沈みました。
「あんた達は、下請けイジメをするつもりか。おたくは図体の大きな会社だから分からんだろうが、6千ドルというのは、我々零細にとって大金なんだ。もし払わないというのなら、出るところに出る。おたくらが我々をタダ働きさせた、とカリフォルニア州政府にも届けるからな。」

仕方ないので、再びフィルと作戦会議です。
「契約担当の私から見れば、契約書に書かれていることを守らなかった彼らに非があります。アンディの怒りも理解できるけど、ここで悪しき前例を作るのはどうかと思います。」
「お前さんの言うことはもっともだが、たった6千ドルを出し渋ってプロジェクト全体を危険にさらすというのも、賢い選択とは思えんな。」
「でも、脅迫されて譲歩するというのはどうでしょうか。」
「うむ。まずはアンディと会って話をしようじゃないか。」

翌週アンディを呼び、三人でミーティングを行いました。現場事務所は会議室が不足していて、たった三人のためにわざわざ部屋を予約するのも気が引けます。そこで食堂の大テーブルの隅を使って話し合いました。ひっきりなしに人が出入りするので気は散るのですが、仕方ありません。

アンディとじかにゆっくり話すのは、今回が初めてです。手紙の文面から滲み出ていた彼の怒りはすっかり萎えていて、今では懇願モードに変わっています。
「うちの会社は本当に自転車操業なんですよ。6千ドルのキャッシュが入って来ないとなると、どこかで工面しなければいけません。社員の給料を滞らせるわけにはいきませんからね。何とかしてもらえませんか。」
来る日も来る日も鬼コーチのリンダに厳しく躾けられて来た私です。ここで情にほだされては、これまでの訓練が無になります。
「アンディ、あなたの会社の財務状況が厳しいからといって、事前の合意無しに契約額以上のお金を払うわけにはいかないんですよ。ここにそうはっきり書いてありますよね。」
契約書を広げ、該当する条項を指差して見せました。
「事前の合意はあったんです。それは本当です。」
彼が言い終わる前に、私が畳みかけます。
「ここに、書面での合意、と書かれていますよね。書面にしたんですか?」
アンディが悲鳴に近い高音で反論します。
「でも我々はあそこで測量してたんですよ!追加調査を頼まれるたびに、一旦現場を引き上げて合意書を作成し、両者サインしてからあらためて出動しろって言うんですか?そんなの現実的じゃないでしょう!」
「まあまあ、二人とも。」
老フィルが、穏やかな笑顔で割って入りました。
「アンディの言うことも分かる。大至急やってくれと現場で誰かに追加作業を頼まれれば、嫌とは言えんだろう。でもシンスケの言うことも筋が通っている。ここはどうだろうアンディ、今あんたが我々に話したことを、きちんと書面にして提出してくれないか。作業の内容も日時もなるべく詳しく書いて欲しい。それをもってわしが組織のトップと相談してみようじゃないか。」

この言葉に救われたアンディは、笑顔を取り戻して我々と握手を交わし、事務所をあとにしました。
「フィル、あなたがああ言ってくれなかったら、この会議はまとまらなかったと思います。どうも有難う。」
私はこの老人の人格に、あらためて惚れ込んでいました。もうひとりの上司であるリンダは、いつも「正当な」ことをやろうとする。私にもそうさせようとする。でも正当なことが常に最良の選択とは限らない。フィルはそのことを良く分かっている。長い経験で培って来た、バランス感覚というものでしょう。

その時、食堂の戸口にボスのマイクが現れました。
「シンスケ、さっきのは誰だ?」
彼はちょっと前に食堂に入って来て、我々三人が会議しているのを目撃していたのです。
「測量業者のアンディです。例の6千ドルの支払いの件を話し合っていたんです。」
マイクの顔に、さっと朱がさしました。
「あれは撥ね付けたんじゃなかったのか?」
「それが、まだ彼がゴネてまして…。」
「お前、どうして会議なんか開くんだ?相手につけこませるだけだろうが!」
今にもつかつかとやって来て、胸倉をつかまんばかりに興奮しています。

その時フィルが、食堂中にこだまするほどの大声を上げました。
「下請け担当にわしを任命したのはあんたじゃなかったのか?マイク。」
マイクはギクリとしてフィルを見ました。
「アンディを呼ぶようシンスケに頼んだのはわしだ。その決断について疑問があるのなら、わしにそう言ってくれないか?」
思わず振り向いてフィルの顔を見ると、威圧感のある目つきでマイクを見据えています。

マイクは急に取り繕ったような笑顔になり、
「いやいや、あんたが仕切ってるのならいいんだ。任せるよ。邪魔したな。」
と姿を消しました。まるで普段大人しい老犬が突如として首をもたげてひと唸りし、獰猛なドーベルマンが尻尾を巻いて退散したような、胸のすく一幕でした。

私はしばらくあっけに取られていましたが、
「どうも有難う、フィル。」
と救済に感謝しました。
「おまえさんが礼を言うことはないよ。」
いつもの好々爺に戻ったフィルは、
「さ、仕事に戻ろう。」
と私の肩に手を置きました。

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