2010年9月4日土曜日

アメリカで武者修行 第22話 彼はまともだよ。

5月末にやってきた新しいディレクターの名は、クラウディオ。ペンキ用の刷毛みたいに厚ぼったい口髭、そして堂々たる太鼓腹。スーパーマリオが眼鏡をかけたみたいな風貌です。就任の挨拶にあっては、その体型にありがちなガラガラ声で、
「オフィスのドアは常に開けておく。自由に出入りしてくれ。」
と言い放ちました。しかしその豪放磊落そうな外見にもかかわらず、実は意外に神経質で短気。未解決の問題を発見すると、即座に片付けないと気がすまないタイプです。

ある日、追加費用要求をめぐる交渉案件について、クラウディオから説明を求められました。ガス管や送電線といった、地下埋設物の位置確認作業。契約上やるべきことは全て終了したにもかかわらず、州政府が「更に三十メートルおきに試掘して再確認せよ」と指示してきた件です。この指示を受けた元請けのORGは、我々に自腹でやるよう圧力をかけて来ました。試算すると、約三万ドルの出費です。埋設物の位置確認をどの程度徹底するかについて、契約書の記述は極めて曖昧。しかし既に調査結果は全て元請けに提出し、彼らの承認を得ているのです。その上での追加指示なので、これが予定外の仕事であることを論理立てて主張すれば、勝ち目は七割程度あると思いました。リンダにこれを話すと、
「そうね。私は五分五分だと思うけど、勝機があるとあなたが思うなら、要求書を書いてみなさい。」
とゴーサイン。さっそく追加費用要求文書を作成し、マイクの承認をもらいに行きました。
「俺はOKだが、これは道路設計チームのトップであるグレッグの管轄だ。彼の承認も得てくれ。」

ところが、文書案をグレッグのところへ持っていくと、
「こんな要求はできないよ。これはうちがやるべき仕事だろ。」
と渋い顔。根気強く私の論拠を説明したのですが、首を縦に振りません。州政府出身者だけに、古巣に逆らうのが嫌なのかな、と一瞬訝りました。
「一旦こんな指示を受け入れてしまえば、さらに十メートルおきに試掘しろと言われても文句言えないんですよ。後々のことを考えれば、ここは戦うべきだと思います。」
それでもグレッグは判断を保留し、要求文書の草案はそのまま彼の机の上で、2ヶ月も眠ることになったのです。グレッグに何度も催促しながら、こうまで決断できない人間がどうして組織のトップグループにいられるんだろう、と不快になりました。そして、もうどっちでもいいから早く白黒つけてくれ、と苛立っていました。誰の費用でやるのか決まらないと下請けに発注できず、私の仕事が滞るのです。

そんなすっきりしない案件でしたが、クラウディオは私の話を聞き始めて15秒後には資料を掴んで立ち上がり、「すぐ戻る」と元請けトップのジャンのところへ直談判に行きました。そして十分後に帰ってきて、
「この交渉は勝ち目が薄い。費用はうちが持つ。たかだか三万ドルのためにこれ以上無駄な時間は使えない。本件はこれにて終了。」
電光石火でした。

6月末の月曜日。元請けのORGからこんな要請を受けました。
「有料区間の設計業務を実施するための組織体制を明示し、提案書にまとめて今週中に提出せよ。」
我々が請け負っている高速道路設計は、無料区間と有料(通行料を取る)区間に分かれており、プロジェクトは無料区間の設計からスタートしました。
「有料区間の設計費用は、無料区間の約5倍。これが始まればあと3年は食いつなげるんだ。」
と、かつてケヴィンが話していました。契約書にサインを交わしてはあるものの、未だ正式なゴーサインが出ていないのです。今回ORGから提案書の提出要求が出されたことで、いよいよ大規模設計プロジェクトがフル始動するぞ、という興奮が組織を満たしました。
「これまで無茶な要求を随分呑まされて来たけど、有料区間の設計がスタートすれば、損失を取り戻せるだろうと上の人間は踏んでるんだ。これでようやく辛抱が報われるってところだろうな。」
とケヴィン。

クラウディオは、さっそく自らエクセルを使ってリソース配分図を作りあげました。その作業の一環でしょう、彼はマイクに組織図の修正を任せました。マイクはいつものように、これをケヴィンに「丸投げ」。ケヴィンは半日間この仕事と格闘していましたが、午後遅くなってから私のところにやって来ました。赤ペンの書き込みで一杯になった修正案を私に見せながら、薄笑いを浮かべています。
「うちの組織がどうしてこうまで混乱しているのか、これで一目瞭然だよ。」
出すべき成果を基に組織図を作ろうとすると、人員配置のモレやダブリが浮き彫りになってしまうというのです。例えば先ごろ解雇されたジムは、組織図上当てはまる場所がありません。また、私の上司がフィルなのかリンダなのか、はたまたマイクなのかもはっきりしません。
「組織図づくりにこれだけ悩むってこと自体が、おかしな話だよな。」

この後、彼はクラウディオに修正案を見せに行ったのですが、間もなく戻って来てこう言いました。
「クラウディオがこの組織図を見て、なんて言ったと思う?」
彼のことだから、仕事がうまく進まなかった原因を一目で見抜いたんじゃないか、というのが私の予想でした。
「一体どうして君がこの仕事をやってるんだ?だとさ。」
これには二人で大笑いしました。少し落ち着いてから、ケヴィンが呟きました。
「彼はまともだよ。」
組織図上、ケヴィンは用地選定担当です。その彼が組織図作りに取り組んでいる理由なんて、答えられるわけありません。結局クラウディオは、ケヴィンの組織図案を大胆に修正して仕上げ、金曜の夕方遅くに提案書が完成しました。

その晩、人が出払ったオフィスで社内保管用の提案書コピーをパラパラめくっていた時、最後の章にチーム全員の履歴書が束ねられていることに気付きました。自分の履歴書が最新版かどうか心配だったのでそれをチェックした後、ふとグレッグの履歴書に目が留まりました。そして彼の大学卒業年が私と同じであることを発見し、愕然としました。若く見えるなあとは思っていたけど、まさか同期だったとは…。彼は一昨年の夏から、副プロジェクトマネジャーとして道路設計チームを率いて来ました。配下には年長者が何人もいます(フィルなどは大きな孫がいる年齢)。3年前にふらりと日本からやってきた私をそんな彼と較べること自体あまり意味がないのですが、それでも「自分はこのままでいいんだろうか」という小さな問いを頭の隅に芽生えさせるには、充分な衝撃でした。

ここは実力社会。組織内での地位は、年齢とほとんど関係ありません。能力と経験、そして人脈が物を言うのです。私は通勤の車内で毎日ケヴィンと話しながら、この国で長期的に安定した職を維持する方法は何か、という疑問にずっと自問自答していました。そして、実績を積みつつ人脈を広げること以外には、「資格を取ること」しかない、という結論に達していました。私にとって最短距離にある資格といえば、プロフェッショナルエンジニア(PE)。クラウディオもマイクもグレッグも、そしてケヴィンもPE。クラウディオが就任間もない頃、
「私の名前で外部に文書を出す時は、氏名の後に必ずPEとつけてくれ。」
と私に指示したこともありました。

ケヴィンによれば、PEは医者や弁護士と同格で、この資格ひとつで報酬は段違い。またこの資格がないと、たとえMBA保持者でもエンジニアリング系の仕事で決裁権のあるポジションにはつけないそうです。
「どうしてケヴィンは、僕にPEを取れって一度も勧めないの?」
この仕事を始めて数ヵ月経った頃、彼に疑問をぶつけたことがありました。
「俺自身、PEの仕事に嫌気がさしてるからだよ。シンスケはこれから、エンジニアとしてやって行くつもりなのか?違うだろ?はるばる日本からやって来てMBAを取ったのは、技術屋になるためじゃないよな。」
「そりゃそうだよ。でもね、今のままじゃジリ貧だよ。実力をつけて人脈を広げるのには時間がかかる。気づいた時にはもう白髪のお爺さんだよ。手っ取り早い打開策は、資格しかないじゃない。」
これにはケヴィンも黙ってしまいました。
「確かに、持ってる俺がそんなもの要らないって言っても、説得力無いよな。」

PEの資格を取るためには、まずEngineering In Training(EIT)という試験にパスしなければなりません。将来自分が技術者としてやっていくかどうかはともかく、ステップアップのための武器を手に入れるチャンスがあるのだから、やるしかない。年明けから試験勉強を開始し、4月に受験。そして7月1日にEITの合格通知が届きました。さあ、あとは翌年4月のPE受験に向けて猛勉強です。今回グレッグの年齢を知ったことで、そのやる気に拍車がかかったことは言うまでもありません。

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